――子どもの頃、人前に出るのは得意なほうでしたか?
「周りが引くぐらい苦手でした(笑)。困ったらすぐ泣いて逃げるか、保健室に逃げ込むか、というタイプでしたね。小学校時代はずっと克服できないままでした」
――お笑いに目覚めたきっかけは?
「中学の時に、高校生の姉ちゃんがアルバイトで稼いだお金で、お笑いのライブに行くようになったんです。ある日、友達が行けなくなって、チケット余らせるのはもったいないから、僕が連れて行ってもらったんです。僕の家は15歳までテレビがなかったんで、それが初めての娯楽だったんですよ(笑)。その時、憧れたのがシェイクダウンさん(2000年12月解散)でした。姉ちゃんは後藤さん(ツッコミ担当。現在はピン芸人)のファンで、僕は久馬さん(ボケ担当。現在「ザ・プラン9」のお~い!久馬)に憧れてました。それで、何度か(心斎橋)2丁目劇場(当時の若手中心の劇場)に通うようになって、ずっとネタを見ていたんです。中2の時に、修学旅行で「出し物」をしなきゃいけなくなって、"お笑いやろうや"って流れになったんですけど、クラスに2丁目劇場に通ってる女子がおったんです。その子が"石田、よくお笑い見に行ってるから、ネタ書けるんちゃう?"って突然言い出しまして。"パクリでもええから、書けや"ってことになり、ホントにパクリで書いたんです(笑)。結局、"書いたやつが一番覚えが速いんちゃう?"ってことで、僕が舞台でやることになって。吐くほど緊張しました。恥ずかしかったですし......。でも、その時、笑いが取れたんですよ。まぁプロのネタのパクリやから、ウケるのは当然なんですけど(笑)。その経験でウケるのは気持ちいいな、っていう快感を覚えたっていうのはありました」
――それが「芸人になりたい」に直接つながったんですか?
「初めて2丁目劇場に行った時から、"こんな仕事したいな"と思ってたんですけど、"自分の性格的に無理やな"っていうのは思っていたし、現実味はなかったです。それで、結局高校3年間も地味で暗い性格のまま(笑)、いっさい面白いとされず、目立つこともなく過ごして、就職しました」
――そんな石田さんがお笑いの世界に向かうというのは、相当の決意だったのでは、と思うのですが。
「僕の中でも革命的な出来事なんですけど、高校の同級生で学校中から面白いとされてたふたりに、"石田、芸人やろう"って誘われたんです。全然僕、面白いこと言ったことなかったですけど、そのふたりは"面白いやん"って言ってくれて。それがすごくうれしかったんですよね。そのふたりとは、井上(現在の相方)も含めていつも一緒にいたんです。普段の会話の中で、無意識でツッコんでたみたいで、その時は僕、ツッコミでした。ただ、結局そのふたりはお笑いの世界を辞めてしまって、解散しました。その当時、井上もバンドを始めてて、僕は東京に1人旅に行ったんですよ。それこそ『月刊オーディション』みたいな雑誌で調べて、オーディションも受けに行きましたし。でも、全然ダメでした。結局、大阪のプロダクション系列の劇団にオーディションで受かって、養成所みたいなところに入ったんですけど、お芝居も楽しいけど、でもやっぱり笑いが取りたいなっていう気持ちがふつふつと湧いてきたんです。それで、"一人で路上でやってみよう"と思ったんですね。でも、そこは持ち前の性格があり、勇気がなく、うじうじしていて。そんな時に、たまたま井上とご飯に行ったら、"俺、路上で歌、歌おうと思ってんねん。おまえは漫才やりたいんやろ。一緒にやろうや"って言われて。"じゃあやるか"と。それが最初のきっかけですね」
――いざ、路上でやってみてどうだったんですか?
「初めて立った時、"漫才やります、歌を歌います。相談乗ります。似顔絵も書きます"っていっぱい書いてたんです。で、初めてリクエストされたのが漫才やったんです。その漫才やった時はサラリーマンにぼろかすに説教されました(笑)。それで、井上がムキになって"漫才一本でやろうや!"って方針転換して。漫才に流れていきましたね」
――そして、その後よしもとのオーディションライブに。
「そうですね。2000年5月から漫才始めて、2000年の7月にはbaseよしもと(当時のよしもとの若手芸人を中心とした劇場)のオーディションを受けに行きました。6月の時点では路上でも人が集まるようになって、自信が出てきてるんですよね。でも、オーディションの1回目は余裕で落とされて、2回目も落とされて、3カ月目で決勝まで上がったけど、決勝でダメで......。その後も予選落ちが続いて、7カ月目で決勝に上がって、ようやく優勝して、ガブンチョ組(当時、baseよしもとのクラス分けで「タレントプロデュース組」になる1歩手前の芸人)に入り込めたんです」
――半年以上、くじけずに挑んだんですね。
「そうですね。僕、だいぶくじけてましたけど(笑)、井上は負けず嫌いなんですよね。でも僕はちょっと冷静なので、ここでは、自分が思う面白いネタをするだけでもちゃうねんな、とか分析して、毎月挑んでました」
――そこで「baseよしもと」の人気芸人となり、大きな転換点は『M-1グランプリ』だと思うのですが、そこへの道のりは?
「2001年1月に吉本興業(当時)に所属して、その1年目でテレビのレギュラーとラジオのレギュラーを1本ずつもらったので、順風満帆や!って思ってたら、そのテレビのレギュラーが1年で終わり、仕事が減り、ちょっとテレビに出てしまうと、若手の劇場でウケにくくなるという現象にハマりました。それで、若いお客さんがウケるようなネタに作り替えたら、営業やなんばグランド花月でまったくウケなくなり、今度はなんばグランド花月でウケたいから、なんばグランド花月用のネタを作ると、若い子にウケなくなり、ずっと試行錯誤して、ちょうどその真ん中......なんばグランド花月でもウケて、若手の劇場でもウケる、っていうのができたぐらいから勝負できるようになったという感覚はありますね。ようやく『M-1』でも勝負できるかな、っていう。そこにいくまではホントに病んでましたね(笑)」
――そして見事、2008年に『M-1』制覇。その頃から、脚本を書いたり、出演したり、お芝居の仕事もされるようになりました。そのきっかけは?
「僕の脳みそが固まり始めたんです。漫才の中の世界観で固まってきたというか。もっと柔軟じゃないと勝てないぞ、っていう思いからですね。お話があって、すぐに"やらせてもらいます"って言いました。自分の幅を広げるひとつやなと思って」
――やってみて発見したこと、得たことは?
「大きいですね。目線ひとつでも、自分なりに意味をつけるだけで、お客さんへの伝わり方が全然違ってきたというか。例えたら、台本が3Dになった感じですかね」
――平面のやり取りだったのが奥行きが出るというか。
「そうですね。脚本を書いてて時々、窮屈になるんです。平面だけで書いてると、行き場に困るというか。それが、奥行きを考えるようになって、漫才にも生かされるようになりました。お芝居に携わる前と比べたら、だいぶ変わったと思います」
――そして、この6月からは主演舞台『スピリチュアルな1日』が再演されますが、昨年の初演で感じたことは?
「この作品は、僕にとって『M-1』以降のターニングポイントといえる作品ですね。震災直後ということもあって、みんなが稽古をしてないと、自分を保てないぐらいの不安定な精神状態で。舞台で伝えることの意味、みたいなものをずっと考えていて、でも答えは出なくても、必死で稽古して......そんな中で本番を迎えました。"お客さんに伝えなくちゃいけない"じゃなく、"伝わったらいいな"ぐらいでいいのかもしれないなって思えるようになったんです。出演者同士で、気持ちがちゃんと通じ合って、ケンカする時にはケンカして、喜べる時に喜びあって、悲しい時には悲しんで......そういうことができていたら、この世界は成立してるんだなって。それを感じ取ることが出来た舞台だったんですよね、とても大きな経験でした」
――その思い入れ深い作品の再演。今回は新キャストも加わりますね。
「根っからの人見知りなので、まだあんまり話せてないですね(笑)。片桐さんともポスター撮影の時に会って、ふた言ぐらい......お互い人見知りなんで(笑)。でも、ほんまに楽しみです。片桐さんなんて、お笑いの中でも高みにいる人で、僕は、なんとか見せ方で勝負してる芸人ですけど、片桐さんはセンスの部分で勝負しているので、その上見せ方も上手くて、その人にどれだけ僕が太刀打ちできるのかっていう......。自分でも楽しみですね」
――初演でも石田さんの座長としてのリーダシップに支えられたという声をよく聞きました。
「いや......前回はみんなで肩組みながらゴールした感じだったんですけど、今回は少しでも、引っ張ることができたらいいなと思ってます」
――仙台公演があるということも意味がありますよね。
「そうですね。1年前から熱望していたことなので、うれしいです。だいぶ復興してきたとはいえ、なかなか舞台を見に東京まで来るという状況ではないでしょうから、気軽に見に来ていただいて、たくさん笑って、泣いて、元気になって帰っていただければうれしいですね」
――さて、最後にオーディションを受ける人へのアドバイスをいただければと思います。
「僕、今までオーディション受ける側だったんですけど、昨年、オーディションを見る側の体験をしたんです。『ラフカット』という舞台の脚本を書いて、オーディションも行ったんですけど、その時に僕が個人的に思ったのは、奇をてらったことを狙いすぎてる子っていうのは、そのあざとさが見えるんやな、と。これはアカンと思いました」
――やっぱりバレますか。
「例えば、"エチュードやってください"って言われたら、定番の中から、派生を考えたほうがいいです。最初からとんでもない方向でくるのは、協調性がないって見えてしまうので、よくないですよね。僕みたいに協調性がないやつが言うなって話でしょうけど(笑)」
――ちなみに、デビュー前の石田さんはどうだったんですか?
「奇をてらってたかな(笑)。でも、オーディションに受かるというよりも、その場にいる人にウケたいっていう気持ちが大きくて、それで変わったことやってたというのはりますね」
――お笑いを目指してる人にとって大事だと思うことは?
「センスがあるやつは突っ走ればいいし、向いてないやつは続ければいいと思う」
――続けることが大事?
「そうですね。向いてないほうが直す部分が見つかりやすいというか、改善点が見えてくるんですよ。"こうやればもっと伝わる"という伝え方を必死で考えるので、変わっていけると思うんです。ある意味、おもしろくないのも才能やと思います。だから、続けることですね」
取材・文・撮影=田部井徹(トリーヌ)